歴民研活動報告
このブログでは京都学園大学「歴史民俗研究会」の活動を紹介しています
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DATE: 2008/10/02(木)   CATEGORY: 活動日誌
保津町まちづくりフィールドワーク②
心地よい秋晴れの中、2回目の保津町まちづくりフィールドワークをしました。今回テーマを「保津の水車と愛宕谷川」と設定し、保津百景道しるべの「愛宕谷コース」を巡りました。愛宕谷コースは「明智越えコース」と同様の登山コースですが、それほどきついものではありませんでした。

保津町自治会を出発し、まずは極楽寺に向かいました。浄土真宗本願寺派の極楽寺は、寛永のころは西馬場にありましたが、当時の半鐘は大正6年の大火災で失われ、今の半鐘は船頭衆28人によって寄進されたということです。

85.惣道場極楽寺~86.旧愛宕谷川跡~87.保津道路元標~88.左いずも、右あたご
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極楽寺を抜けて府道25号線に出たところで旧愛宕谷川跡の看板があります。明治22年に愛宕山周辺で集中豪雨があり、愛宕谷川の上流にある谷山池の堤防が決壊し、大水害が発生しました。先ほどの極楽寺も被害を受けたそうです。現在の愛宕谷川は少し北寄りにあり、コンクリートで改修されています。

89.保津八幡の楠~90.和光院鐘楼~91.構ノ内陣屋跡~92.保津八幡宮
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境内には復元された「火床」が2つあります。「手水の場所にある湧き水で釜に湯を煮えたぎらせ青笹を湯に浸し振り払い、その滴を浴びると厄が祓われ、又宵宮のこの火にあたると健康が約束される……(以下略)」と、すぐそばの看板に書かれています。

93.和光院跡~94.どんどん下ろしの坂~95.栢木
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八幡宮を抜けると、急斜面の坂が見えます。古くからこの坂は、太鼓御輿の「どんどん」という音に由来しているようです。坂を上りきり、さらに山の方に向って歩きます。広い田んぼの奥には、太閤秀吉公ゆかりの「栢木」があります。大正時代の民俗学雑誌『旅と伝説』にも、この木にまつわる伝承が収録されています。

 保津村の某家の庭先に三抱半程の榧の木がある。昔関白豊臣秀吉が伏見城で病にかかり、容易に全快の見込みがつかなかつた際、此の榧の木で抜き風呂を拵へて入浴したら必ず治るといふので、此の木を献上するやうにとの下知があつた。そこで村では大至急献上すべく、その手順を定めてゐた処が、惜しくも秀吉の病は急に悪化して遂に死去して仕舞つた。
出典:田中勝雄「地名起源伝説と植物伝説」(p.77,『旅と伝説 復刻版20巻』,岩崎美術社)

妖怪釣瓶落としが出たという榧など、やはり、栢(榧)の木には伝承が残るほどの不思議な力があるのでしょうか。住民への聞き取りなどは後日再調査で。

IMG_0253.jpg96.五区会議所
また、看板のすぐ左には古い建物があります。明治11年に亀山城が取り壊しになる時に、城主の学舎をこの地に移転したものとして残っている。この周辺(西馬場地区)のある家には、祟り石というものがあると、『口丹波口碑集』では伝えられています。



97.養源寺~98.文覚寺
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さらに奥に向かって進むと、保津川を開削した角倉了以ゆかりの「養源寺」があります。臨済宗妙心寺派のお寺で、了以翁の子孫が養子入りしたところでもあります。少し進んだところには角倉了以と同じく保津三人の一人、文覚上人ゆかりの文覚寺もあります。

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ここからは愛宕谷川と並走するように旧愛宕道を進みます。景色は民家が並ぶ村々から林道に変わっていきます。

99.一の瀬旅籠跡~100.石切場跡・こんにゃく工場跡~101.番所跡~102.山の神~103.引無窯跡
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この旧愛宕道は嵯峨大覚寺への宿坊、鳥居本、御所への近道として利用され、旅籠や道しるべがあることなどから人々の往来は激しかったそうです。人の出入りを確認する番所もここにありました。「山の神」は、山人が仕事の安全を祈願するために、毎年1月9日、ここで神にお供えをしていたそうですが、それを怠ると山の神が祟るとも語られているそうです。引無窯跡には平安期の須恵器が出土したと言われています。かつては栄えた道でも、現在は道端に登山客が残したようなゴミが散らばっているばかりです。

104.旧金毘羅旧参道口~105.一の瀬水車跡~106.金毘羅相撲場~107.爆弾六発投下跡
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さらに奥へと進み、門扉を越えると、目的の水車跡にたどり着きました。保津の水車は江戸時代後期から昭和にかけていくつかあり、精米・精麦などに使われていましたが、戦後に精米機が登場し、発電も水力から電力へと転化したことから水車は消えていったそうです。しかし現在保津町では、町をあげてこの保津水車の復活に取り組んでいるのです。この周辺には太平洋戦争時の傷跡もあったそうですが、今は木や雑草が生い茂っているばかりです。

108.馬場の谷~109.雪峠の水~110.愛宕谷十字峡~111.木面(綿)工場水車跡
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山から流れてくる愛宕谷の三名水の一つ、「雪峠の水」を見つけました。発音の関係で「ユキトゲの水」とも呼ばれています。「雪峠の水を死に水に」と言われるほどの名水だそうです。その奥には木面(綿)工場の水車跡もあります。木面工場とは、昔箱の中の果物などを傷つけないように保護する目的で細かく木を削ったものです。木面にする機械の動力に、ここにあった水車が使われていたそうです。また、この先の「不動の滝」の周辺にも水車の跡があります。奥にはNo.112~129の看板が立てられていますが、時間の関係で、この辺りで引き返しました。

IMG_0266.jpgIMG_0270.jpg帰り道は保津大橋の下に寄り道。10月5日(日)に行われる「ふるさと清掃運動会in保津川」の会場となるところには、ゴミがあちらこちらに見られました。川辺だけでなく、人の目の行き届きにくい山林にも多くのゴミが見られ、景色を台無しにするだけでなく、保津川の支流である愛宕谷川が雨で増水すれば、そこにあるゴミは保津川に流れ着いてしまうのです。登山を通して保津の歴史や文化を知るだけでなく、山も川も美しくしていくための活動も必要ではないでしょうか。

まねーじゃーさん

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