歴民研活動報告
このブログでは京都学園大学「歴史民俗研究会」の活動を紹介しています
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DATE: 2008/06/26(木)   CATEGORY: 活動日誌
筏流しと舟運技術を聴く
 保津川はかつて筏で木材などを運搬していました。その筏流しも、鉄道や船の技術の発展とともに衰退しました。現在、府内には元筏師の方が3名いらっしゃいます。筏の技術や船頭の生活を聞き、記録するため、南丹広域振興局や亀岡市文化資料館を中心に、亀岡・南丹から聞き取り調査が始まりました。

 歴史民俗研究会は、聞き取りの記録や筏づくりイベントの運営に参加することになりました。

 先月の第1回目の聞き取りに引き続き、第2回目の聞き取りが実施されました。今回は「筏の構造と部材」というテーマで、元筏師さんたちが筏をどのように呼んでいたかを中心にお伺いしました。

 日吉町郷土資料館が発行した『大堰川に筏が流れたころ』を題材に、筏の各部分の名称を教えていただきました。筏は丸太10~12本を組み合わせて「1連」といい、それを6連、10連、12連と連結して川を下っていたようです。春に一度、よく乾いた筏の上に台をつけ、近所の子供10人を乗せて嵐山まで下ったこともあるそうです。

 筏師さんたちの間では、1連目を「はな」、2連目を「わき」、3連目を「そ」、最後を「猿尾」と呼んでいたそうです。保津峡を下っているとき、進行方向に対して右を「老」、左を「愛宕」とも言って、「老」は老ノ坂、「愛宕」は愛宕山を指していました。

 やがて世木ダムが完成すると、上流から筏は来なくなり、宇津根浜での筏の組み直しもなくなりました。筏師さんが鵜飼ヶ浜を仕事の現場にしていたころ、国鉄山陰線のデッキから「かん」という筏の道具をこの浜に落としていたこともあったそうです。

 鉄道によって筏や木造船の役目も後退しつつあったころ、汽車の貨車に米や木材、瓦礫を積む仕事をする人が現れました。今回の聞き取りでは鉄道によって生活が少しずつ変わりつつあったころの貴重なお話を聞くことができました。

まねーじゃーさん
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