歴民研活動報告
このブログでは京都学園大学「歴史民俗研究会」の活動を紹介しています
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DATE: 2010/02/24(水)   CATEGORY: 活動日誌
王地山稲荷大明神の謎(2)(修正)
ご指摘が多少あったので修正しました。

6.伝承の比較
 これまであらすじを紹介した王地山稲荷大明神の伝承とその類話の事例を比較してみると、詳細な伝承内容が得られたのは「篠山の負け嫌い稲荷」であった。また、青山忠裕が篠山藩主であり老中だった時代であると特定されており、それは一八〇四(文化元)年以降のことであったとされる。
 史実と伝承を整理すると、まず一七四八(寛延元)年に松平信岑が亀山藩に移った際、篠山藩にあったとされる王地山稲荷大明神もともに移された。その時代、まだ伝承は発生していない。それから数十年後、青山忠裕が藩主となり、老中となったころに、篠山藩での伝承が起こる。そしていつしか亀山藩でも語られるようになったと考えることができる。
 よって、亀山藩での伝承は、もとは篠山藩での伝承であり、内容の「篠山藩」が「亀山藩」に変化したと思われる。そして、「篠山の負け嫌い稲荷」はこの他の三つの伝承のオリジナルであると考えることができる。しかし伝承がいつ、どのような形で亀山藩にもたらされたかは推測の域を出ないが、同じ丹波国の二つの神社と、篠山、亀山の関係の密接さを伝承から読み取ることもできる。
 また、転封の際、篠山にあるこの神社も亀山に移すということは、信岑はこの稲荷を熱心に信仰していたということを裏づけてくれる。


7.なぜ「力士」に化けたと語られたのか
 この四つの伝承に共通するのは、稲荷が力士に化けたということである。ここでは力士に化けた理由ではなく、力士に化けたと語られたことを中心にみていく。
 それを考えるキーワードとなるのが、江戸時代の相撲にある。特に、将軍の目の前で行う上覧相撲で勝ち星を取るということの意味を考えると、あるとき突然、強い力士が現れ、将軍がご覧になっている相撲に勝ったと語れば、篠山藩、亀山藩の人々にとって鼻高々なことだと思われる。それは、現在の王地山稲荷大明神が、勝負の神様として人々から信仰されていることからも裏づけることができる。
 また、江戸時代の相撲は現代のように大衆文化であった。将軍が相撲の観戦を楽しんだように、庶民も相撲観戦を余暇の過ごし方としていたようだ。また、伝承が示す年代は、かの有名な大関・雷電が活躍した時代に近い。当時は上覧相撲のほか、寺院への寄付を求める勧進相撲の興行も各地で行われていたという。
 妖怪としての王地山稲荷を考えた際、当時の大衆文化——相撲——に表れている、ということも指摘できる。妖怪は、その時代の大衆文化と深く関係を持っており、現代においても妖怪は小説や映画、アニメやマンガに登場しているのである。


参考文献
大森恵子(1989)「狐伝承と稲荷信仰—特に、変化型狐伝承と茶吉尼天信仰を中心にして—」『日本民俗学』No.177,94-116頁
京都新聞社(1980)『京都 丹波・丹後の伝説』京都新聞社
下中弘(1993)『日本史大事典 第4巻』平凡社
坪井忠彦・垣田五百次(1925)『口丹波口碑集』東京堂書店
二反長半・宮崎修二朗ほか(1974)『日本の民話 14 大阪・兵庫篇』未来社
和歌森太郎著作集刊行委員会(1983)『和歌森太郎著作集 第15巻』弘文堂

つちのこ亭幸乃鳥
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