歴民研活動報告
このブログでは京都学園大学「歴史民俗研究会」の活動を紹介しています
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DATE: 2008/08/29(金)   CATEGORY: 活動日誌
保津町まちづくりフィールドワーク①
 亀岡市は1954年に1町15村の町村合併(のちに船井郡東本梅村、南桑田郡篠村編入)で誕生した町です。そのため、かつて村であった地域は、それぞれのコミュニティで独自のまちづくりを行っています。その中でも、地域の宝を子どもたちにも共有しながら地域を巡ることのできる、保津町の「保津百景道しるべ」をフィールドワークしました。
 今日はその第1回目で、保津町自治会を訪問し、保津町の歴史やまちづくりの意義を教えていただいたのち、大学や歴史民俗研究会とのまちづくりの共同研究を提案しました。
 写真は4月に開業した亀岡駅の新駅舎。保津町へは駅の北口からアクセスすることができるようになりました。駅北口には季節の花々が育てられています。これからの季節はコスモスが見どころになるそうです。

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 保津川下り乗船場を通過し、大橋を渡ります。大橋からは保津川(桂川)を一望することができます。この大橋を渡ったところのT字路には、写真のような看板が立てられています。これが「保津百景道しるべ」の案内です。「大家族宣言のまち 保津町」は追々説明しますが、これが保津町のまちづくりの根本となる考え方となっています。

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 案内看板の周辺には、赤い看板があります。番号が振られています。これが「保津百景道しるべ」で、保津町自治会が中心となって町内各地に160本立てたものです。看板の隅にはQRコードが貼られています。これを携帯電話のバーコードリーダーで読み取るとこの看板に関する情報が表示されるのです。

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 さて、保津町自治会役員の皆さんから保津町のまちづくり、「ふるさと百景道しるべ」についてお話を伺いました。設置の目的は、町内に点在する遺跡や名所などを通して、歴史文化を学習するために立てられました。この看板を見た子どもが、家で父母あるいは祖父母に聞くことによって、家族のコミュニケーションのきっかけにもなります。また、この看板づくりの一部は亀岡市立保津小学校の児童とその保護者らによって行われました。このような地域の歴史文化を学習する手法は「地域学」や「地元学」とよく似ています。
 この「保津百景道しるべ」をたどっていくことで、①北保津コース、②保津川コース、愛宕谷コース、④明智越えコースの4つのコースを通過することになります。特に「明智越え」コースは人気で、市内だけでなく、奈良や枚方から散策に来られた方もいるそうです。これからこの4つのコースと看板160本をめぐって、保津町のまちづくり研究を進めたいと思います。

まねーじゃーさん
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DATE: 2008/08/28(木)   CATEGORY: 活動日誌
第5回筏流しと舟運技術を聴く
 9月10日の本番に向けた聞き取りと、筏の試作会が亀岡市文化資料館で行われました。仕事帰りの保津川下りの船頭さん10人が酒井さん、上田さんのご指導を受けながら、2連の筏を試作しました。今日は連絡協議会の各メンバーのほかに、京都学園大学映像研究会やマスコミ関係者が取材に来られました。関西のマスコミにも取り上げられるようになり、いよいよ本番に臨むことになります。

 今回の筏製作で使う木材は、亀岡市立保津小学校に保管されていた北山杉(写真)で、元筏師の上田さんに木材をチェックしてもらいました。1連に10本の木材を使いますが、長さや太さが微妙にことなるので並べ方も気をつけなければならないのです。

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 まず、木材をつなぐための準備に、丈夫な木の枝を置き、水に漬けて柔らかくした藤のつるを巻きつけながら、「カン」と呼ばれる金具を上から取り付けて固定します。2連目も同様にして組んでいきます。筏は1連目を「はな」、2連目を「わき」と言います。

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 そして1連目と2連目を連結させます。これも藤のつるを用います。

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 次に、「シン」(連の端側3本の内側)と呼ばれる部分を、「かせ木」という丸太(少し細め)で固定します。保津峡の急流を下るために必要なパーツで、固定しないとバラバラになってしまうそうです。
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 最後に舵を付けます。舵は1連目の後ろに藤のつるで取り付けますが、きつく縛るのでは舵を動かすことはできないので、「あそび」を持たせなければなりません。この微妙な調節に船頭さんたちは苦戦していました。

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 2連の筏が完成すると、酒井さん、上田さんへの質問や試作した筏の出来具合を見てもらいました。
 1時間半ほどで2連の筏が完成しました。次回の9月10日(水)では、午前中に酒井さん、上田さんのご指導をいただきながら、3連の筏を作り、午後は保津浜から山本浜までの筏流しを実演します。この先の天気に不安はありますが、1000年以上の歴史を持ち、京都や大坂の町の礎にもなった筏流しを約60年ぶりに復活するプロジェクトも、いよいよ大詰めとなりました。

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まねーじゃーさん
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DATE: 2008/08/22(金)   CATEGORY: 活動日誌
落語と怪談「牡丹灯籠」
粗筋
旗本飯島平左衛門の娘お露は、病を患って本所柳島の別邸で養生していた。あるときそこへ、医師が浪人の萩原新三郎と連れ立って訪れ、お露は新三郎に一目惚れする。しかしその後、お露はもとよりの病に加えて恋煩いまで抱え、命を落としてしまい、お露に仕えていた女中のお米も、看病疲れから後を追うように死んでしまった。
 お露の死を知らされた新三郎は、その冥福を願い念仏を唱えて過ごしていた。ところが、お盆の十三日、新三郎の家にからん、ころんという駒下駄の音と共に、牡丹燈籠を提げたお米に伴われたお露が訪ねてきた。死んだと聞かされていた新三郎は驚くが、久しぶりの再会を喜び、二人を家に入れた。二人は明け方になると新三郎の家を去り、翌日も、その翌日も夜になるとやってきた。
 お露とお米が現れてから七日目のこと、新三郎の隣家に住む伴蔵という男が、夜な夜な隣から女の声がするのを不思議に思って覗いてみる。すると、新三郎が抱いているのは骸骨であった。
 新三郎はお露とお米の墓のある新藩随院を訪ね、二人が幽霊であることを知り、新藩随院の良石和尚から金無垢の如来像とお札を譲り受け、以後、二人の幽霊を退ける。
 しかし、お米から百両をもらう条件(条件を提示したのは妻のお峰)で、お札と如来像を伴蔵とその妻お峰に隠され、新三郎はお露とお米の霊にとり憑かれ、壮絶な最期を迎える。その死体の傍らには女人の髑髏が転がっていた。
 その後、行方を晦ました伴蔵も、お峰に浮気を責められた拍子に旧悪を暴かれてしまう。妻を殺して逃げる途中、川から出てきた白い腕に引きずり込まれ、行方知れずとなった。


原本
中国、明代の怪談集『煎燈新話』の中の一編「牡丹灯記」
内容はほぼ同じだが、終盤に鉄冠道人という人物が現れ、悪霊と化した三人を地獄へ送ったとされる。
日本へは室町時代末期に伝わった。
明治期の噺家、三遊亭円朝が今の形に整えた。


牡丹灯籠の怖さ
怨恨ではなく思慕によって殺される怖さ
→幽霊になってまでも愛しい者のところへ向かう狂気にも似た恋慕の情。その恋慕の情に恐怖を感じる。また、足があるという特徴も、単に中国伝来というだけではなく、新三郎にとっても望まれた存在だったのではないか、と推測できる。
→人間は心が許容するものには親しみが持てる。このことから、新三郎自身はお露の存在を認めていた、と考えられる。
欲のためならば他人すら差し出す人間の業
→自分のためなら何でも出来るという浅ましさに対する皮肉。この辺りは『四谷怪談』や『累ヶ淵』にも通じる部分があると思われる。


まとめ
『牡丹灯籠』は元々中国から伝えられたものだが、三遊亭円朝によって日本的な幽霊譚としてまとめられた。
『牡丹灯籠』には、他の幽霊譚と比較して恐ろしさよりも物悲しさを感じる。それは、怨恨ではなく思慕の情によって引き起こされた怪異だからではないだろうか。
また、金目当てで新三郎を売った伴蔵・お峰の夫婦は、自身の欲のために動いているが、これは裏を返せば人間は欲でしか動けない存在だと伝えたいのではないだろうか。
どちらにしても最後には狂気に至ってしまうことが、『牡丹灯籠』という作品の怖さだと、考える。


参考文献
『中国幻想小説傑作集』武田晃編 白水社 1990.12.20
『日本怪談大全第二巻 幽霊の館』 田中貢太郎 国書刊行会
『牡丹燈籠』 大西信行 三一書房 1974.8.15
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DATE: 2008/08/08(金)   CATEGORY: 活動日誌
第4回筏流しと舟運技術を聴く
 今回で4回目となる筏流しと舟運技術の聞き取りが、亀岡市文化資料館で開催されました。まずはじめに、文化資料館の黒川館長より9月10日の筏づくりイベントに向けた企画の進行状況が報告されました。特に、当日は台風シーズンなので雨天中止の場合のことも綿密に企画しなければなりません。さらに、筏だけでなく、水車や木造船の復活も、京都府の「地域力再生プロジェクト」に盛り込んでいこうという動きもありました。また、亀岡市議会議員の有志によってJR亀岡駅の北口前に保津峡のオブジェが設けられたことも報告されました(写真:オブジェ)。
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 さて、前回までの聞き取りは筏流しのことが中心でしたが、今回は木造船以降の保津川の様子や船頭の仕事ぶりをお聞きすることができました。現在の保津川下りで使われている舟はプラスチック製となっていますが、木造船は昭和54年頃まで下っていたそうです(写真:模型)。

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(所蔵:亀岡市文化資料館)

 筏は嵐山まで到着すると解体されますが、木造船の場合は、乗船場まで引き上げなければなりません。元船頭の上田さんの現役時代には現在のようなトラックはなかったので、人力で引き上げるしかなかったのです。これを「曳き船」といいます(写真:オブジェ)。

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 この曳き船をするには、船頭4人がチームを組んでします。船の先端部に長さ30メートルほどの専用の綱(写真)をつけ、3人の船頭がそれぞれ引っ張りながら、船長が竿で方向を調整していくという大がかりなものです。綱を引く船頭は先頭から「先綱」、「中綱」、「後綱」と呼ばれており、先綱は若手、後綱はベテランが担当していました。急流の保津峡を遡って乗船場まで戻るのに4時間はかかったそうです。

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(所蔵:亀岡市文化資料館)

 保津峡には、「綱道」という曳き船の専用ルートがありました。しかし保津峡の左右すべてに綱道が整備されていたわけではなく、対岸の綱道を通るというのを山本浜まで12回ほど繰り返していました。このルートを上田さんは丁寧に説明してくれました。大変険しい場所なので、履いていたわらじはボロボロになり、廻ヶ渕でわずか1分の間に代えのものに履き替えていたそうです。

 聞き取りの後半は、今の船頭もやっていらっしゃる「川作」の技術をお聞きしました。川作とは、保津川の水量が減ったときにそれまで浸かっていた岩が露出し、船の通過の妨げになる箇所(「小鮎の滝」など)があるため、道木を置き、水をせき止めて部分的に水量を増やすことを言います。上田さんたちが現役の頃はこれを「木工沈床堰(もっこうちんしょういせき)」と呼んでいました。この木工沈床堰は日吉ダムの完成によって渇水が緩和されたので頻度も減ったそうです。

 次回の8月27日の聞き取りでは、9月10日の本番に向けて、実際に現役の船頭さんたちが筏を試作します。

まねーじゃーさん
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DATE: 2008/08/01(金)   CATEGORY: 活動日誌
亀岡異界/妖怪四十二箇所  十三、みなづき様
7月31日に、南丹市八木町観音寺・屋賀にフィールドワークに行ってきました。
今回参加したのは、一回生三人と、三回生二人、そして、お客様一名です。
研究会は、みんなで楽しくをもっとーとしておりますので、研究会メンバー以外の方もよく参加されます。今回も、そんなお客様(社会人の方)一名と一緒に楽しく行ってまいりました。

今回は、みなづき様についての調査です。
みなづき様とは、現在の八木町観音寺と屋賀という地域に伝わるとされる伝承です。
どのようなものかと言うと、歴民研愛用の『口丹波口碑集』にその記述が載っておりますので、以下に参照したいと思います。

船井郡と南桑田郡の境にある富本村観音寺部落の氏寺に、俗にみなづき様と呼ぶ木の株がお祭りしてある。それは、帽子を被った人の様な格好をした五尺ばかりの自然木である。このみなづき様は元来屋賀(やが)部落にお祀りしてあったものだそうなが、今から百年程前のことである。屋賀部落と観音寺部落との中間に國分川が流れていて、観音寺部落の流れがこれに注いでいる。この國分川が洪水を起こすこと累年に及び屋賀の人達を苦しめたので、部落の人達は國分川にこのみなづき様を投げ捨てた。みなづき様は流れを上って観音寺部落のある橋の下でキーキーと鳴き声を立てていられたので、村人達が拾い上げて祀ったのだと云ふ。拾い上げた七月のある日には毎年踊をする。最初に踊った時には隣の部落のものが喧嘩に来たと云う。このみなづき様には瓜の初物をお供えする。『口丹波口碑集』p22~23

このみなづき様は、地域では、みなづきさんと呼ばれ、現在、観音寺にある興禅寺というお寺に安置され、祀られています。
見た目は、高さ一メートルほどの、彫刻の削れた木彫りの仏像のような姿で、人間のような形をしています。頭の部分は、確かに帽子を被ったように盛り上がっていました。下半身の右の足の辺りから、背後にかけて、ぼこぼことした木の塊がくっついており、その部分だけ、幅60センチほどあったように見受けられました。

毎年、7月の31日には、この地域で採れたお野菜をお供えしてお祭り(みなづき様を公開)をするそうです。今回伺った時には、西瓜やきゅうりなどの野菜(もちろん、瓜もお供えしてありました。この辺りでは、瓜が有名だということで、漬物などとしても売られています。その辺の関係も今後調べてみたいと思います。)と、みなづき(お餅のお菓子)がお供えしてありました。
口丹波口碑集では、かつて、踊りをしたと書いてありましたが、実際に昔には盛大に踊りが行なわれ、賑やかだったそうです。お話によれば、それは、盆踊りと関係しているようでした。

みなづき様が流されたという國分川は、現在でも、観音寺と屋賀の丁度中間に流れています。
現在は、水量の少ない、比較的細い川ですが、洪水の時には、観音寺にある川と、屋賀にある川がこの國分川に流れ込むということなので、恐らく、物凄い水量になって氾濫することも推測されます。
観音寺地域の方の話によれば、みなづき様は、この國分川の、上(カミ)から流れて来て、観音寺の薬師寺さんの下方辺りで、引っかかって、キーキー泣いていたといことだそうです。この薬師寺は、現在では、観音寺の公民館になっています。
しかし、薬師寺の前にはどこに祀られていたかは良くわからないそうです。
一説には、屋賀寺という氏寺だったかもしれないということです。屋賀寺は、今は地名だけ残っていて、場所は、明確には良くわからないそうです。

その他にも、みなづき様は、その見た目から、もとは仏像で、洪水になったから、焼かれて、川に捨てられたのでは?とおっしゃる方もいらっしゃいました。


以上は、数回聞き取りしたことに基づいて書かれています。まだ、十数人にしかお話を伺えておりませんし、語ってくださる方によっても、話の内容が異なることもあります。また、私たち自身の聞き間違えということもございますので、その辺りはご了承くださいませ。
今後、まだまだ確認しなければならないこと、聞かなければならないことが山ほどありますので、これからも、この調査を続けていきたいと思います。

観音寺と屋賀周辺地図

                                                
                                                  算盤坊主     
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